「若者の○○離れ」はどこか批判的はニュアンスを含む、若者に対しての常套句みたいなものだ。「最近の若者は本を読まない」も、それにあたる。おもしろいのは「最近の」と言いながらこの手の言葉はいつの時代もある。「若者の本離れ」は約40年ほど前から言われ続けているようで、きっとこれからも言われ続けるのだろう。
読書をしないことはそれほど罪深いことなのだろうか。そもそも「読書をする」ということはいつの時代も同じ意味なのだろうか。
残業を当たり前として働いていた時、本がほとんど読めなかった。タイトルを見たとき思わず共感して手に取ったけれど、読み進めていくとタイトルに対してこの本の内容は全く違うように感じた。それでも最後まで読むと、タイトルの意味が分かるような気がした。
この本で興味深かったのは、読書というものの役割、意味合いが時代によって変わっていったということだ。明治、大正時代の読書は、一部のエリートの教養のためにあったが、戦前、戦後はこれがエリートだけでなく大衆の教養に変わる。教養をつけることが豊かな生活を送る足がかりになっていたのだ。1970年から1990年にかけて、娯楽としての読書が広がりを見せる。日本的企業の働き方が定着するのも相まって、自己啓発や社内のコミュニケーション術などの本が読まれるようになる。会社での成功は教養以外の要因が強く影響するという考えが広まっていったようだ。そして現在では、読書以外の娯楽が発達し、読書は「ノイズ」という側面を強く持つ、と筆者は分析している。
本を読むということは忍耐力のいるものだと思う。タイトルにつられて買った本が思った本でなかったり、受賞作が自分には刺さらなかったり、ゲームや動画に比べて不確実性が高い。わざわざ読まなくても、YouTubeで本の解説動画はごまんとある。映画やアニメ、その他なんでもタイパが重視されるこのご時世に、わざわざ時間をかけて読み進めていかなければならないというのは効率が悪いともとれるだろう。
ただ、人が読書をしなくなったといわれる要因はほかにもある。働くことで自己実現をするという価値観が浸透し、働くことに手いっぱいで本を読むというような活動をする時間と元気がなくなっているのではないか、と筆者は指摘し、そんな社会へ警鐘を鳴らしている。
筆者はこの本で読書がしたくてもなかなかできない人には読書の世界へ再び戻れる手引きを、読書は趣味ではないけれど、日々の忙しく仕事三昧の日々を生きている人には現状を見直すヒントを提示している。